哲学・思想ブログ

ハイデガーの存在論から「自分らしく生きるとはどういう意味なのか」ということを考察

2018年12月16日

世界像という言葉

近世に入り、自然科学が発達したことによって、それまで持っていた世界の意味が全く変わってしまった。
まず、自然についての神学的解釈や人間による意味づけが払拭化されたことにより、人間から独立した「物体」となってしまった。
さらに、ガリレオ・ガリレイにより物理学は自然科学が理性的思惟(合理的思惟)の方法として数学的方法を取るようになる始まりであった。
それ以後、数学的方法は化学全体の原型となり自然が「数学化」されていった。

この自然の「物体化」と「数学化」が、近代における自然の持つ意味の変容の理由である。

かつて、自然と人間との関係を中心に世界は形成されていたが、自然の「物体化」と「数学化」以後は、世界を外部から俯瞰し客観的分析対象とする世界像という言葉が生まれた。
19世紀以降多くの学者が世界像に言及したが、これを最も鋭く批判したのが、ドイツ人哲学者のマルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)である。

ハイデガーの存在論とは

ハイデガーは存在の本質を捉えるために、まず人間の存在の仕方を考える必要があると考えた。

人間の存在とはどういうことなのか

まず、存在論は個々の物の性質ではなく、物が存在するとはそもそもどういうことかを考える学問である。
哲学においては存在論としてひとくくりにされて、古代ギリシアの時代より論じられてきたが、共通するのは「ある」ということである。

この世界内においてどんなものであれ、わたしたちがそれを理解するには「ある」ということについての理解が必ず伴われている。

古代ギリシアでパルメニデスによって生まれた存在論は、デカルトから始まった認識論が主流になったことで下火になったが、ハイデガーが存在論の復権を宣言したことにより、再び脚光を浴びることとなったのである。

ハイデガーの世界内存在(In-der-Welt-Sein)

客観的存在世界ではなく、実際に個々人の生きる世界をハイデガーは環境世界と空間性に分け、この環境世界が人間の身の周りの諸事情の世界であるとした。
また、空間は世界の世界性、いわば実存の世界によって可能となっている。
この世界性は、客観主義的、実在論的な観点からではなく、個々の世界から見られた、実存相関的、いわば欲望相関的な観点から改めて見直された世界のあり方である。

存在者(ザインデス)と存在(ザイン)

ハイデガーは世界を存在者(ザインデス)と存在(ザイン)に分けた。
また、哲学の本来の目的は存在者(ザインデス)について考えることではなく、存在(ザイン)について考えることであると主張した。

人間は物心ついた頃から最も身近に出会う存在者、例えば、道具、環境、時間などの関係性を解釈する身の回りの世界と関係しながら存在している。
ハイデガーによると、何かが存在するという概念は人間特有のものである。

では、人間と動物の違いはなんだろうか。

人間も動物も存在者(ザイン)であるが、自分や物が存在していることを考えることができるのは人間だけである。
猫は存在しているが、自分を存在することはない。

ハイデガーは、ただ存在しているだけの物に対して、存在するという単語の他動詞性があるのは人間だけであり、自己の存在に関心をもち、それを了解する唯一の存在者、すなわち存在するという概念を理解できる存在という意味を込めて人間のことを「現存在(ダー・ザイン)」と呼んだ。
現存在とは、ハイデガーが物を了解し語ることのできる人間の特権的地位を認め、存在の現れる場という定義として、われわれ人間を表すために造語したものである。

ハイデガーによると、世界はこれらの概念によって作り上げられている。

世界とは人間の解釈に他ならない。
また、人間は常に世界を解釈して生きている。
このようにさまざまな体系の関連の全体像が世界であり、事物や道具などの存在者と異なって、実存として存在する人間は、他人や他の事物と共に世界の内に存在している。
そのような世界と個々人の人間によって現に生きられ実在論的な世界の見方のことを、世界内存在(In-der-Welt-Sein)と呼ぶ。

この言葉は実在論的な観点から見た人間と世界の本質を示している。

人間が生きている限り、一つの生の世界が存在し、そういう自分固有の生の世界の内を生きている実在としての人間が世界内存在としての人間なのである。

現存在にとって自らの存在、自分の在り方

現存在は世界のさまざまなものと関わって存在している。

前述のように、現存在は世界の内に投げだされている世界内存在であるともいえる。
ゆえに、わたしたちは一人で生きているわけではなく、他者と関わり合って生きている。

すべての人は世界の中で生きている世界内存在である。
現存在にとって自らの存在、自分の在り方が問題であり、現存在は自分が存在するということに常に何かの形に関心を寄せて関わっている。

たとえば、現存在にとって環境世界で出会う存在者や物は認識される対象である以前に現存在によって作られ、常に何らかの役割を与えられた存在物(what)として使用される道具存在者である。
一切の役割・性質をもたない純粋な存在そのもの(本質、who)であることはありえないことである。
その存在物について私たちが語る時には、存在物がどんなものであるか、質感がどうであるとか語ることにより、その語りの中に存在物が姿を現すことになる。

現存在は生きていくうちに自分以外の他者と必ず関わる。
つまり、自分以外の何かが回りにあって関わるということが成立するといえる。

この「関わる」ということをハイデガーは「気遣い」と呼ぶ。
配慮的気遣いという実存カテゴリーは製作、使用、非使用といったものとの関わりを誘導する現存在のあり方を示している。

世界内存在としての現存在は、道具存在者だけでなく、このとき他者に対しても顧慮的気遣いを行い、それが自分自身に何かしらの形で関わっていのである。
このように人間はこの関わるということを繰り返していくうちにだんだんと身の回りにあるものを理解し、その中にいる自分というものを理解し始める。
つまり、世界という客観的なものがまず存在しているのではなく、空の箱の中におかれた自分自身が他者と関わること(=気遣い)によって世界と自分が生まれ、世界内存在となるわけである。

他の現存在

現存在とは共存性のある自己存在である。
世界もまた共世界であり、自分以外の現存在がいる。
つまり、わたしだけではなく他の現存在も常に存在しているといえるのである。

さて、わたしたちの日常に目を向けてみよう。

わたしたちは当たり前のように他者の目を気にしたり、他者のことを気にかけたり、他者から浮いていないだろうかと気遣って生きている。
それが日常においてよくある自分以外の現存在との関わりである。

他の現存在たちとの同化を望んだり、他の現存在たちも劣等感を感じ追いつこうとしたり、他の現存在たちより優れた存在になりたいという気持ちが芽生えたりする。
ハイデガーによると、これらの態度は現存在自身が存在しているのではなく、他の人々が現存在から存在することを奪っているという。
つまり、これらの態度の中には他の人々への隷属が潜んでおり、自分がどう振る舞うか決定するにあたって、他の現存在たちの考え方を基準にしてしまっているといるのである。
ゆえに、他の現存在と同じようにふるまって普通であることを望むこと、他の現存在より良い成績を取りたいと望むこと、他の現存在よりもお金持ちになりたいと望むことなどはすべて他の現存在への隷属であり、自分自身として生きているのではなく他の現存在に支配された生き方なのである。

今日的な問題の考察

現代は情報化社会であり、インターネットで瞬時に世界とつながり、ニュースだけでなく、TwitterやFacebookやInstagramなどで個人が発信する情報まであらゆるコンテンツが手のひらのスマートフォンの中にとめどなく注ぎ込まれている。
他の現存在への隷属といった面についての考察はこうだ。
SNS上では他の現存在たちの考え方を基準にしてしまったり、他の現存在からの優越感を満たすために、嘘の投稿をして見栄を張る人々も少なくない。
だが、それは他の現存在に支配された生き方であるともいえるのではないだろうか。
このようなメカニズムで発生する隷属的な生き方はインターネットのない時代であれば、狭いコミュニティでしか発生しなかったと考えられる。
ところが、現代社会はインターネット上の存在が、隷属的な生き方を最大化し、グローバル化しているのではないだろうか。

また、ある国家、地域、家庭、個人という範囲において正しいことであっても、インターネットを介してつながった他の現存在にとって、その価値観が許されない場合は、自身の価値観そのものを魔女裁判に裁かれてしまうこともある。
本来なら住み分けすることができるはずなのに、インターネットという場で出会ってしまったばかりに一方的な価値観をもとに裁かれてしまうという問題はグローバルな現代の情報化社会における病理なのではないだろうか。

おわりに

自分を支配する「基準」について意識をすることで人はより善く生きていくことができるのではないだろうか。

たとえば、他の現存在と同じように振る舞って普通であることを望む人が、「それは他の現存在への隷属なのか」と自分自身に問いかけたとする。
その結論として、「普通に暮らすのが自分の幸せである」ということを突き詰めることができたなら、それは隷属からの解放であり、普通に生きる道を選ぶとしても現存在自身が存在しているといえるのではないだろうか。
良い成績を取りたいと望むのも、お金持ちになりたいと望むのも同様である。

つまり、他の現存在と自身の在り方を対峙させることにより、自分を支配する「基準」がどこからくるものなのか、またその「基準」を取り払ってもその望みは消えることはないのか、ということを明確にすることができるのである。

グローバルな現代の情報化社会においては、インターネットを介して他の現存在と関わりすぎているがゆえに、他の現存在と自身の在り方を対峙させながら、自分を支配する「基準」について思索することに心が折れてしまうかもしれない。

だが、現存在と対峙して自分を支配する「基準」がどこからきているのかということを明確にすることで、自分自身の在り方を隷属から解放することができるのではないだろうか。
また、それは自分らしい生の在り方への肯定にもつながっていくのではないだろうか。

参考文献

ハイデガーを学びたい人にもおすすめの本です。

竹田青嗣『ハイデガー入門』、講談社、2008年

大橋良介編『ハイデッガーを学ぶ人のために』、世界思想社、1994年

ヒューバート・L.ドレイファス、門脇 俊介(監訳)『世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学』、産業図書 2000年

田口茂『現象学という思考<自明的なもの>の知へ』、筑摩選書、2014年

ヴェルナー・マルクス(著), 佐藤 真理人 (翻訳)『フッサール現象学入門』、文化書房、1994年

ハイデガー、熊野 純彦 (翻訳)『存在と時間(一〜四))』岩波文庫、2013年

マルティン・ハイデッガー、中山元『存在と時間』光文社 2015年

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麗乃(Reino)

社会人学生として慶應義塾大学文学部を卒業。 学位は美学(Bachelor of Art in Philosophy)。 現役の時は青山学院で英文学を、慶應では哲学を学びました。 佐賀県唐津市生まれ、東京育ちのフリーランスのブロガー・美容研究家・サメ愛好家・Webマーケター・SEOコンサル。 大好きな東京タワーのある港区のとある町で夫とカエルとサメたち暮らしています🐸🦈🗼 UK Rockをこよなく愛するバンドThe Charlene.(シャーレイン)のボーカルMiuとしての顔もあります😎 詳しいプロフィールはこちら

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